大判例

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東京高等裁判所 昭和39年(う)482号 判決

被告人 加倉井正利

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人佐藤藤佐提出の控訴趣意書(但し、第四丁裏括弧内の部分は撤回)、同森長英三郎提出の控訴趣意書(但し、論旨第一点三の(2)は撤回)、同鍛治良作、同鍛治良道、石川滋連名提出の控訴趣意書(但し論旨第一の(1)のうち中島精一、富田勝男及び武井武三郎の検察官に対する各供述調書を論拠とする部分は撤回)及び同長島忠信提出の控訴趣意書(但し論旨第一の(6)は撤回)各記載のとおりであるから、これらをここに引用する。

弁護人九名共通の所論の要旨は、原判決は罪となるべき事実として、「被告人は昭和三七年一二月三日施行の茨城県真壁郡明野町町長選挙に際し立候補して当選したものであるが、同年一一月二八日午後一時頃、同郡明野町東石田一、一四〇番地中島義仲方前道路において開催された同選挙に立候補した加倉井郁三郎の街頭演説会場に到り、応援演説中の同候補者の選挙運動者である新井敏治(当五一年)に対し、やにわに着用していた背広の襟を掴み、更に手で胸の辺を三、四回こづくなどの暴行を加え、その演説を妨害しもつて選挙の自由を妨害したものである」との事実を認定し、これを公職選挙法第二二五条第一号、第二号の罪に問擬しているが、被告人は右新井敏治に対し原判示暴行乃至演説妨害の行為に出でたことはなく、右はその場にいた古宇田正夫ほか被告人の支持者の行為であつて被告人は無関係である。そもそも本件は右明野町長選挙に際し立候補した、元同町長であつた被告人の一派と、対立候補者たる当時の町長加倉井郁三郎の一派との間の政治的勢力の衝突に起因して発生した事案であるところ、原判決は原審における、証人島田信義、(中略)及び被告人の各供述により新井敏治に対して原判示所為に出でたのは古宇田正夫等であることが明白であるのに拘らず、故なくこれらの証拠を排斥し、経験則に反し右加倉井郁三郎派に属する原審証人新井敏治、(中略)及び同加倉井郁三郎本人の、被告人を失格させる意図をもつて真実を歪曲した、信憑性のない各供述を一方的に採用して原判示犯罪事実を認定したものであつて右は採証の法則を誤つた訴訟手続上の法令違反により事実誤認の過誤を犯したものであつてこれが判決に影響を及ぼすことは明らかであると言うにあり、これに附加して(1)弁護人鍛治良作、鍛治良道、同石川滋の所論は、仮りに被告人が新井敏治に対し背広の襟を掴み、手で胸の辺を三、四回こづくなどの行為をしたとしても、この程度の行為は違法性を欠き前示公職選挙法第二二五条第一号にいわゆる「暴行」に該当しないから、原判決は法令の適用を誤つたものであり、また被告人の右所為が新井をして演説を中止するに至らしめたものではないから、原判決は事実を誤認したものである。また仮りにこれが、同法条にいわゆる「暴行」に当るとしても、右は、選挙演説中公然虚偽の事実を摘示して被告人の名誉を毀損しつつあつた新井敏治の急迫不正の侵害行為に対し、自己の名誉を防衛するため己むことを得ざるに出でた正当防衛行為、または、自己の名誉に対する現在の危難を避けるため己むを得ざるに出でた緊急避難行為、若しくは、被告人に他の適法行為を期待し得ない状況下におけるいわゆる期待可能性なき行為として、いずれにしても行為の違法性を阻却する場合であるのに拘らず原判決がこれを看過したのは、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認乃至法令適用の誤を犯したものであると言い(2)弁護人長島忠信の所論は、被告人は新井敏治の不当な言論に対し言論をもつて反駁したに止まるが、仮りにこれによつてその演説を妨害したものであるとしても、右は、新井敏治の演説による急迫不正の名誉毀損行為に対する正当防衛行為であるのに、原判決がこれを看過したのは、事実誤認乃至法令適用の誤を犯したものであり、また、原判決が、被告人の本件所為は正当防衛、緊急避難または期待可能性なき行為であるとする弁護人の主張を排斥しながら、その理由を説示しなかつたのは刑事訴訟法第三三五条第二項に違反する訴訟手続上の法令違反を犯したものであつて、これらの瑕疵はいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかであると言うにある。

よつて考察するのに、本件公訴事実(及びこれに対する罰条)は

被告人は昭和三七年一二月三日施行の茨城県真壁郡明野町長選挙に際し立候補して当選したものであるが、同年一一月二八日午後一時頃同郡明野町東石田一、一四〇番地中島義仲方前道路において開催された同選挙に立候補した加倉井郁三郎の街頭演説会場に到り同候補者の選挙運動者である新井敏治(五〇年)の右応援演説中、同人の身辺に近付き大声で怒鳴り着用していた背広の襟を掴み更に手拳で胸の辺を四、五回撲りつけて同人に暴行を加えその演説を妨害しもつて選挙の自由を妨害したものである(公職選挙法第二二五条第一号第二号)

というにあるところ、原判決の挙示する原審各証人の供述中原判示に副う部分は爾余の証拠と対比してこれを信用するに足りこれらの証拠を含む原判決挙示の証拠を綜合すれば(一)被告人が原判示明野町長選挙に際し原判示日時場所で開催された対立候補者加倉井郁三郎派の街頭演説会場において、同候補者の選挙運動者新井敏治(当時五〇年)が応援演説中、同人に詰め寄つて原判示のとおり同人の着用していた背広襟を掴み更に手で胸のあたりを三、四回小突くなどし、結局同人をしてその演説を中止するに至らしめた事実を認めることができ、論旨援用の原審における各証人及び被告人の供述中、右認定に反する部分は措信し難く、一件記録及び当審事実取調の結果によるも右認定を覆えして所論のように右事実を否定し被告人がこれらの事実とは無関係であることを認めるに由がないと同時に、被告人が右新井に対し、公訴事実摘示の如き所為に出でた事実もこれを肯認し難い。よつて被告人の右所為が罪となるか否かについて更に審究するに、原審における証人水柿秀男、(中略)及び被告人の各供述(記載)、当審において取り調べた多久島貞信に対する詐欺、公文書偽造、加倉井正利ほか二名に対する各詐欺、江黒義男に対する詐欺幇助、贈賄各被告事件につき東京地方裁判所が昭和三二年一〇月二日言渡した判決書の謄本、加倉井正利ほか一名に対する業務上横領被疑事件の記録及び東京高等検察庁検事内田達夫作成名義の昭和三九年六月一七日付電話聴取書(加倉井正利に対する業務上横領事件の不起訴処分についてと題するもの)によれば(二)被告人は右明野町長選挙に立候補し対立候補者加倉井郁三郎と覇を競つて当選した者であるが、同選挙が数日後に迫つた原判示当日、その選挙運動日程に従い、自派応援演説隊及びこれに随行する支持者数十名をひきい、宣伝用自動車に搭乗して同町内数ヶ所で街頭演説を行つた末、更に街頭演説を行うため原判示時刻頃原判示中島義仲方前道路に到着したところ、たまたま加倉井郁三郎派応援演説隊が既に来着し、同派応援弁士新井敏治(当時、茨城県下館市議会議長在職中)が拡声機を使用し、同演説隊随行の支持者数十名と附近住民多数を聴衆として附近一帯にも聴える状況の下で街頭演説を行つているところに遭遇したが、同弁士はその演説中、対立候補者たる被告人の人格に触れ、さきに被告人が茨城県農業共済組合連合会長として、当時世間の耳目をひいた農林事務官多久島貞信に対する詐欺、公文書偽造被告事件に連座し、同人ほか二名と共謀の上昭和三〇年四月頃公金四〇〇万円を騙取したとの嫌疑により公訴を提起されたが、第一審東京地方裁判所において昭和三二年一〇月二日犯罪の証明がないものとして無罪の判決言渡を受け、同裁判は検察官の控訴申立なく、そのまま確定し、また明野町農業協同組合長として、昭和三一年四月頃業務上保管中の明野町収入役名義の預金六〇万円を業務上横領したとして昭和三七年七月中告訴されたが水戸地方検察庁下妻支部において取調の結果犯罪の嫌疑がないものとして不起訴の裁定を受け、両事件とも被告人に有利に結着を見ているに拘らず、両事件に言及して、被告人は多久島事件において、真実は有罪であるのに、裁判所をごまかし、部下の相被告人に罪をなすりつけて処罰を免がれしやあしやあとしている。また公金六〇万円横領の件も不起訴になつたが有罪である。かかる人物は町長たるに不適格である旨、虚構に亘り、被告人の人格を誹謗する言辞を敢てし、これを傍聴していた被告人側随行者小田部一郎ほか数名が憤慨して同人に詰め寄り「人身攻撃はやめろ」「政策で争え」などと叫んでこれに抗議したため暫時演説を中断したが右抗議が納まり被告人側演説隊から演説続行方の督促を受けて演説を再開するや再び右両事件に触れ、被告人には右多久島事件のほかに公金六〇万円横領事件があり、これまた真実は、有罪であるが、時効により不起訴処分を受けたに過ぎない。自分は法律を研究しているから間違ない。その御本尊が今此処に来ている旨、前同様虚構に亘り、被告人の人格を誹謗し、町長たるに不適格であることを暗示する言辞を繰り返えし、更にこれらの事項を敷衍詳言して如何なる誹謗的言辞に及ぶやも測り難い気勢を示したため被告人及び前記小田部一郎、等被告人の支持者数名はこれを聴くや期せずして同時に右演説中の新井の身辺に接近して同人を取り巻き、ほか十余名も同人の正面に集り、被告人は同人の着衣(背広)の襟を掴みその手で胸のあたりを三、四回小突きながら「どこから来たかも判らない者に何が判るか。」「既に裁判できまつたものは、もうきまつたものではないか。今更持ち出して何を言うのか人身攻撃はやめろ」などと語気鋭く抗議したところ、右新井はこれら多数の者に取り囲まれ抗議の喧騒に巻き込まれて、遂に右演説を中止するのを己むなきに至つたものであること、一方被告人は新井が被告人等の抗議により演説を中止するや直ちに、同人を取り巻いた被告人の支持者等に退去を命じこれらの者と共に新井の身辺を離れたものであること、を認めることができ、(右認定に副わない原審証人新井敏治、同細谷藤一郎、同谷中羊一の各供述は措信し難い。)、これによつて見ると、加倉井郁三郎派応援弁士新井敏治は、右演説中、対立候補者たる被告人側の抗議制止にも拘らず、再度に亘り公然、虚構の事実を交え被告人の不名誉となるべき事実を摘示して被告人を誹謗し更にこれらの事項を敷衍詳言して誹謗の言辞に及ぶべき気配の下に演説を継続していたものであつてその行為は公然事実を摘示して被告人の名誉を毀損侵害し(この点において刑法第二三〇条の名誉毀損罪を構成するものと言わなければならない。尤も、右演説中、被告人が右多久島事件に連座し、且つ公金六〇万円横領事件につき告訴されて不起訴に終つたとの事実を摘示したのは、同法第二三〇条の二第三項にいわゆる公選に依る公務員の候補者に関する事実に係り真実ではあるが、右認定の如くこれを歪曲し、候補者を誹謗する趣旨において摘示するにおいては同条項に該当せず、違法性あるものと解する。)つつあつたものと言うべきであり、被告人がこれを聴いて同人の身辺に詰めより着衣の襟を掴み、手で胸を三、四回小突くなどしながら強くこれに抗議する行動に出たのは、被告人の名誉に対する急迫不正の侵害から自己の権利を防衛する目的に出でたものであつて、よつて新井敏治をしてその演説を中止するに至らしめたのは右防衛のため己むを得ないところであつたと解するのが相当であり、その行為は、正当防衛として違法性を阻却するものと言わなければならない。されば、原判決がこれを看過し、原審弁護人の所論を排斥して原判示事実を認定し、被告人の所為を公職選挙法第二二五条第一号第二号所定の、選挙運動者に対する暴行及び演説妨害の罪となるものと解したのは、事実を誤認し、法令の適用を誤つたものであつて、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、この点の論旨は理由あるに帰し、原判決は破棄を免がれない。

よつてその余の論旨について判断するまでもなく本件控訴はその理由があるから刑事訴訟法第三九七条第三八〇条第三八二条に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い被告事件について更に判決をする。

当裁判所は、本件公訴事実に対し、前掲各証拠により前示(二)の事実を認定し、被告人の所為は刑法第三六条第一項にいわゆる正当防衛行為に該当するものと認めるので刑事訴訟法第三三六条前段に則り、被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 小林健治 遠藤吉彦 吉川由己夫)

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